死の鳥、擬人化する人間、DTOPIA、イワン・デニーソヴィチの一日

死の鳥

 

もしこの世に慈悲深いイエスが存在するとしたら、神が存在するとしたら、それはほかならぬAMなのだ。(「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」p.72)

 

ベスは闇のなかに立ち、恐怖のあまり震え、泣いていた。動かぬ肉塊とナイフをふるい続ける男を見つめることにとうとう耐えきれなくなって、彼女は首をめぐらした。周囲の暗い窓には─まさに彼女がしているように─立ちつくし見つめている人びとの顔があり、なぜかそれらが彼女には見えるのだった。水銀灯の薄暗い光のなかに紫色にうかびあがった人びとの顔は、まったく同じ表情をしていた。女たちは男の二の腕に爪をくいこませ、口のはしから舌をわずかにのぞかせて立っている。男たちは目を輝かせ、微笑している。それは闘鶏を見守る表情とすこしも変わらなかった。深く吸いこんでは吐きだされる息。下方の陰惨な光景が多少なりとも養分になるとでもいうのか。(「鞭打たれた犬たちのうめき」p.237)

 

「内面生活が干上がるとき、感情が衰え、無感情(アパシー)が高まるとき、人が他者に影響を及ぼすどころか、文字どおりの意味でふれあいを持てなくなるとき、接触へのデモーニックな欲求として暴力が燃えあがる。考えうるもっとも直接的な手段によってふれあいを強制する、狂った衝動である」─ロロ・メイ『愛と意志』(「鞭打たれた犬たちのうめき」p.264)

 

擬人化する人間

 

現在の言葉の弱体化・届かなさは社会による主体の消失によるところである。だからこそ文学はもう一度、主体=「私」の問題を見直す必要がある。単純に言語のみへ還元するのではなく、言葉の外に焦点をあてて考えていく必要性がある。そのために言葉を声として届ける音楽に今日の「文学」性を見ることはおかしな話ではない。(p.250)

 

ポストモダン化と呼ばれる大きな物語の崩壊は様々なところに見て取れるものになってきた。それは学問の世界をはじめ、実際の生活空間においてもそうだ。相対主義的なものが社会の中に入り込み、常識を揺らがせる。この運動は良い面も大きい。絶え間ない懐疑によりかつての偏った常識が崩されていくことで、多くの人が自由を得ていくことは有益であろう。しかし、本書でも繰り返し述べるような過剰相対主義的状況ゆえに基盤が揺らぎ、自我を成立させるための足場が消えていっているのだ。いわば地面を知らない根無し草だ。果たしてそれは根無し草とも言えるのだろうか。

この所与としてのポストモダン化・情報化の中の新しい自我をもとに、僕たちはどう生きていくか、そしてどう主体を再構築していくかを考えなければならない。

ここまで示したように近代的自我を形成してきたのは言葉であった。しかしそもそも言葉とは虚構性を持つものだ。近代人はそれを実体性のあるものと錯視して使っていたのではなかったか。自我は虚構によって形成されていく儚いものだ。自我の消滅、虚構の弱体化、そして言葉の力の衰退はそれぞれ相互に関係している。それこそ、それらを起こしているテクノロジーの発展や思想的潮流を止めることはできないだろう。その中で人間は「人間」という枠組みを変更せざるを得なくなる。それが脱人間である。その流れが行き過ぎると自己の消滅に繋がってしまう。

だからこそ、主体の回復、自我の再構築が必要になってくる。この一見すると近代主義的な主張は、それゆえ少しばかり古典的なものに見えるかもしれない。だが、そもそも立脚点を見出せない中で、いくら脱構築の優位性を説いても虚しさのみが残るのと同様に、人間がいない中で脱人間を推し進めてもそこには何もなくなってしまう。よく考えてみるならば、ポストモダン化とテクノロジーの進化の二つのメリットは解体と再構築の容易さである。過去から現在へと続く自己を残しながらも、縛られすぎることなく軽やかに変身させる。それを容易になすものが、虚構性を持つ「言語」なのだろう。そしてともすれば、文学は実用性に乏しいと思われているが、その実、主体形成や意思形成の本質であるため、その意味ではあまりにも実用的すぎるほどだ。

現代の主体は、かつての主体と異なり、集団をまとめるイデオロギーのような大きな物語に支えられているものではない。だからこそ、そもそもが自己否定から始まり、そこから再構築を始めていく、弱々しい存在だ。近代という父に支えられた強い自我を持つ人間ではない。人であることを疑いながらも人であろうとする人擬き。そして解体と再構築を繰り返す。それが「新しい主体」ではないのだろうか。

虚構=フィクションは現在の状況を戯画的に映すようなものだけではない。また単純な娯楽としてあるわけでもない。「作り手」という「私」=「主体」を作り出すものでもある。

自我が薄れていくことを悲観する必要はない。自分の存在を肯定できなくとも、僕たちはいくらでも変わることができる。現代において文学という虚構の言葉は今もそのことを粘り強く語りかけている。(p.250,251,252)

 

DTOPIA

 

「自分がメソメソしてたら、みんなこの火傷のせいだと思うだろ」って答えた。「傷モノは絶対に泣き言を言っちゃいけないんだ」。それがMr.マドリードのルールだった。「それに現代のように、いち個人の行動とバックグラウンドとを容易に結びつける社会で、トラウマを開示することはつまり、人格をジャッジする権限を明け渡すようなものだよ。他人にペラペラ教えるべきじゃない」とMr.マドリードは冷静に話して、視聴者たちの賛同を集めた。ただそれは、「彼の言うように、番組にフォーマットとして開かれたコンプレックスより、オフのときの言動にこそ本物のコンプレックスがあるはず」っていう少し都合のいい勢力も生んで、またそれぞれの本音が発掘されていった。(p.131,132)

 

「例えば多くの植民地には軍の基地が置かれているけど、そこでは軍人と現地民の間で子供が生まれるよね。で、フランス海軍ポリネシア撤退を訴えることは簡単だけど、その結果として生まれた子供を前に、軍ははじめから設けなければ良かったと言える人は少ない。それは現実の人間に生まれなければ良かったって言ってるのと同じだからね。デート兵は、生きた子供を使って『歴史上のこれ以前には逆行できない』っていう杭を打った。植民地ではいろんなものが兵器になるんだ。銃、核、選挙権、性欲、愛、子供……ほぼ全ての行動が、力関係の中で兵器になれる。おれたちの笑顔も、この世界を温存させ、時間の流れを固定していく。やばいよね」マルセルは頬を両手の指の先で優しく押してみせた。(p.152)

 

イワン・デニーソヴィチの一日

 

「結局のところ」と、彼は独りぎめした。「いくら祈ってみたところで、この刑期は短くなりゃしねぇんだ。とにかく、『はじめから終りまで』入っていなくちゃならねえんだ」

「いえ、そんなことを祈っちゃいけません!」と、アリューシカは声を震わせた。

「自由がなんです?自由の身になればあんたのひとかけらの信仰まで、たちまち、いばらのつるで枯されてしまいますよ!いや、あんたは監獄にいることを、かえって喜ぶべきなんですよ!ここにいれば魂について考える時があるじゃありませんか!使徒パウロはこう申されました、『汝ら、なんぞ嘆きてわが心をくじくや?われ、主イエスの名のためには、ただに縛らるるのみならず、死ぬるもまた甘んずるところなり!』とね」

シューホフは黙って天井を見つめていた。もう自分でも、自由の身を望んでいるのかどうか、分らなかった。はじめのころは激しく望んでいた。毎晩のように、刑期は何日すぎて、何日残っているかと、数えたものだ。が、やがてそれも飽きてしまった。そのうちに、刑期が終っても家へは帰されず、流刑になることが分ってきた。それに、流刑地とここでは、どちらのほうが暮しやすいのか、それすら分からなかった。(p.249)

血を分けた子ども

血を分けた子ども(あとがき)

 

「血を分けた子ども」は私なりの男性妊娠小説だ。私はずっと、まずもってありえないと思われるその立場に男性が置かれたらどうなるのかを物語で展開してみたいと思っていた。男性が妊娠を選ぶことにするとして、ただしそれは女性にできるからでも、好奇心からでもない─そんな物語を書けるだろうか?私としては、男性が困難な状況にあらがって、同時に困難な状況のゆえに、愛のために妊娠を選ぶようなドラマチックな物語を書けるかどうか試してみたかった。(p.44)

 

ヒフバエはほかの昆虫がつけた咬み傷に卵を産みつける。自分の体のなかで蛆虫が生きていて大きくなり、私の肉を食べながら成長していくのかと思うと耐えられなかったし、その恐ろしさに、もしそれが自分の身に起きたらどうすればいいのかわからなかった。それに追い打ちをかけるように、耳にしたり読んだりした情報はどれも、ヒフバエに寄生されてもすぐに蛆虫を取り除くべきではないとアドバイスしていた─合衆国に戻って医師に診てもらうか、ハエが成長のサイクルにおいて幼生期を終え、宿主から這い出てきて飛び去るのを待つように、と。

問題は、蛆虫をつまみ出して捨てるという、いかにも当たり前に思える対処法では感染症を招いてしまうということだった。蛆虫は文字通り宿主にしがみついているため、つまみ出されたり、切り取られたりしても、体の一部が残ってしまう。案の定、残されたその部分は死んで腐り、感染症を引き起こす。ありがたい話だ。

ヒフバエのように動揺せずにはいられないものに出くわすと、私はそれについて書く。書くことで、自分にとってなにが問題なのかを整理する。(p.45)

 

「血を分けた子ども」で試みたことがもうひとつある。家賃を払うことについての物語を書こうと思ったのだ。太陽系外の、人のいない世界で孤立した人間の植民地についての物語だ。どう見ても、その人間たちが生きているうちに援軍は来ない。その物語は、宇宙の大英帝国にも、〈スター・トレック〉にもならないだろう。遅かれ早かれ、その人間たちは自分の……宿主となんらかの調整をすることになる。おそらく、珍しいたぐいの調整になるだろう。人間が自分たちのものではない世界で生きていける空間を与え、それと引き換えになにをもらおうと他者が考えるか、誰にわかるだろう。(p.46)

 

夕方と、朝と、夜と

 

自分の体を引きちぎろうとしました。自分の腕に噛みついて、それから……噛みちぎった肉をのみ込んだ。できた傷口を、もう片方の手の爪で引き裂いた。その人は……。やめて、とわたしはその人に叫びました」わたしは自分の体に両腕を回した。その若い女が血まみれになり、わたしたちの足元に倒れ、自分を食べながら、自分の肉をえぐっている姿を思い出した。えぐっていた。「みんな、必死で、出ようとしていた」

「出るって、なにから出るんだ?」アランが鋭い声で訊いてきた。

(中略)

わたしは首を横に振った。「拘束から、病気から、病棟から、自分の体から……」

 

前向きな強迫観念

 

私は高校でアーチェリー部だった。そこに入ったのは、チーム競技ではなかったからだ。チーム競技によっては好きなものもあるが、アーチェリーが上手いか下手かは自分の努力で決まる。誰のせいにもできない。私は自分がどれだけやれるか知りたかった。高いところに狙いを定めることを学んだ。標的の上を狙う。そこだ。力を抜く。放つ。きちんと狙えていれば、真ん中に命中させられる。私から見て、前向きな強迫観念とは、自分自身の狙い、自分の人生の狙いを、選んだ目標に定めることだった。自分がなにを求めているのかを決める。高いところを狙う。それを目指す。(p.153)

 

書くという激情

 

まず、「閃き」など忘れること。習慣のほうが当てになる。閃きがあろうとなかろうと、習慣は自分を支えてくれる。習慣によって、物語を完成させて磨くことができる。閃きはそうした助けにはならない。習慣とは、粘り強さを実践することだ。「才能」を忘れること。もし才能があるのなら、それは素晴らしい。使うといい。才能がないとしても、それは問題ではない。閃きよりも習慣のほうが当てにできるのと同じく、才能よりも学び続けることのほうが当てにできる。学び、作品に磨きをかけ、必要であれば方向性を変えるにあたって、プライドや怠け癖に邪魔されないこと。(p.163)

 

最後に、想像力について心配しないこと。必要な想像力はすでにあるのだし、この先の読書や日記や勉強のすべてが想像力を刺激してくるのだから。自分の発想で遊んでみること。楽しむこと。バカバカしいとか、異常だとか、間違っているとかいったことは心配しない。書くというのはほんとうに楽しいことなのだ。自分の興味、そして想像力に導かれるままにすることが第一だ。それができるようになれば、使いきれないほど多くを思いつくことになる。そのとき、それをひとつの物語に仕立てるというほんとうの作業がはじまる。それをやめないこと。

粘ること。

 

恩赦

 

「私たちは中毒性の麻薬です」(p.205)

 

どうやら、異星人たちが植民地を創設するつもりだと明らかになったとき、核による総攻撃が行われたようです。数か国の軍が、かれらが着陸する前に空から撃退しようと試みて、失敗しました。それは誰でも知っています。でも、集合体が各地にドームを設置するや、もう一度攻撃の試みがありました。そのとき、私はすでに、モハーヴェ・ドームに囚われていました。どうやって攻撃が跳ね返されたのかは見当もつきませんが、私は知っていて、尋問のなかで軍も認めたことがあります─ドームに向かって発射されたミサイルは、ひとつたりとも爆発しなかった。爆発するはずだったのに、しなかった。そして、しばらくしてから、発射されたミサイルのちょうど半数が返却されました。弾頭つきで無傷のまま、ワシントンDCのホワイトハウス周辺にばらまかれているのが見つかりました。一発は大統領執務室のなかでした─合衆国議会議事堂でも、ペンタゴンでも見つかりました。中国ではゴビ・ドームに向けて放たれたリアからのミサイルの半数が返されました。パニックと、混乱と、怒りがありました。でも、そのあと、その『侵略者たち』、『異星人の雑草ども』は、多くの言語で私たちの『客』や『隣人』、さらには私たちの『友達』になっていきました」

「核ミサイルの半数が……返却された?」ピエダード・ルイスはささやき声になっていた。

ノアは頷いた。「そう、半数です」

「じゃあ、残りは?」

「どうやら、残りの半数は集合体の側がまだ持っています─地球に持ってきた武器なり、ここに来てから作った武器なりがあれば、それと一緒に」

沈黙。六人はお互いを見つめ、それからノアに目を向けた。

「短く、静かな戦争でした」とノアは言った。「私たちは負けました」

セラ・コリアーは陰鬱な目でノアを睨んだ。「でも……それでも、できることはあるはず。どうにか戦えるはず」

ノアは立ち上がり、座り心地のいい椅子を押しやった。「そうは思いません」と言った。「雇用主たちが待っています。そろそろ向かいましょうか」(p.209,210,211)

 

マーサ記

 

「もう少し成長するための時間。あるいは、少なくとも、思春期の残滓を生き延びる方法を見つけるための時間」神は微笑んだ。「自己破壊的な衝動のある人がどうやって思春期を生き延びるのか、考えてみたことはどれくらいある?個々の人間ではなく、人類全体にも当てはまる問題だから」

「夢にそれ以上のことができてもいいのでは?」とマーサは訊ねた。「夢を使って、人が眠っているときに心ゆくまで満足できるだけでなく、起きているときに成熟するようにも仕向けることができてもいいのでは。といっても、種として成熟するというのがどういうことになるのか、私にはよくわからないけど」

(中略)

「人が起きているときにより思慮深くなれるよう夢で教えるか、せめてそう促すことはできる?現実に与える影響にもっと関心を持つように促すことは?」

「望むのなら、そういう形にできる」

「そういう形にしたい。人々には眠っているあいだに目いっぱい楽しんでほしいけど、起きているときにはもっとはっきり自覚を持ってもらって、嘘や仲間からのプレッシャーや自己欺瞞に負けないようになってもらいたい」

「マーサ、そうしたところで人は完璧にはならないよ」

マーサは立ったまま神を見下ろし、自分が大事なことを見落としているのではないか、神はそれを知っていて面白がっているのではないかと心配になった。「でも、それで助けにはなるでしょう?」とマーサは言った。「助けになることのほうが害よりも多いはず」(p.239,240,241)

この人の閾


この人の閾

 

「うん。勝負がつくまで触られなかった駒でいたいと思っているから」(p.42)

 

家計の助けでなく“生きがい”とか“充足感”を得るという意味で、主婦をしているよりも仕事につきたい人がけっこういるんだと真紀さんは言った。そういうつもりで働いている女の人たちがいることは知っているし、現にぼくの会社にもたくさんいるけれど、「男のそういう無意味さをよく知っているはずなのにね」と、ぼくは言った。(p.63)

 

真紀さんのいる場所はいまのこの自分の家庭の中心ではなく、家庭の“構成員”のそれぞれのタイム・スケジュールの隙間のようなところで、それでは“中心”はどこにあるかといえばたぶんそんなものはない。子育てというか子どもの教育を中心に置いてしまうような主婦もいるが、真紀さんの場合どうもそれもなくて、たとえばモンドリアンの絵のように色分けした画面分割だけのような絵や、誰の絵か忘れたがふわっと彩色されたキャンバスの上で何本もの斜線が交差し合っているような絵を、ぼくはそのとき想像した。そして、現代芸術というのは絵画も音楽も何でもどんどん抽象度を増すが、家庭もそうだったのかと思ったりした。(p.65)

 

本を読むのに一つとても幼稚なことだが、ページをめくる満足感のようなものがあるが、真紀さんにはそれもないのだった。というか、真紀さんはことさら自分の読む本は内容で選んでいるのではなくて量、つまり読むのにかかる時間で選んでいるんだと言おうとしているみたいで、「だからニーチェなんかはよくないのよね」と言った。(p.67)

 

「真紀さんはこれからずーっとそういう本を読むとしてさ、あと三十年とか四十年くらい読むとしてさ─、本当にいまの調子で読んでったとしたら、けっこうすごい量を読むことになるんだろうけど、いくら読んでも、感想文も何も残さずに真紀さんの頭の中だけに保存されていって、それで、死んで焼かれて灰になって、おしまい─っていうわけだ」

「だって、読むってそういうことでしょ」(p.69)

 

イルカは「頭がいい」とか「知能が高い」とよく言われる(ぼくは真紀さんに話した)。人間並みか場合によってはそれ以上だと言う人もいるけれど、イルカは人間のように文字も持たないし建築物も機械もつくらない。人間の場合、発見や発明をしたり何かすごいものを書いたりする人が頭がいいと言われることになっていて、何も形にしない人はだいたいその対象にならない。別の言い方をすれば人間の場合だと相当頭の悪い人でも何か作ったり書いたりするけれどイルカやクジラはそういう形の知能を持たない。あるいは自分たちの知能をそういう方向に伸ばそうと考えなかった(真紀さんは笑って「手がないからねぇ」と言った)。(p.70)

 

「ヨガの行者でも禅の高僧でも何でもいいんだけど、人からスゴイって思われてる人間が世の中にいろいろいるだろ?(「いるねぇ」と真紀さんは相槌を打った)

でもそういう人たちって、パソコン使えるわけじゃないし、いい企画を立てたりするわけでもない。(真紀さんは口許に笑いを浮かべながら頷いた)

そういうことと関係なくスゴイ人はスゴイだろ?─っていうか、スゴイこととそういうあたり前の人間的な能力は別ものだろ?

だから、そういう人がスゴイと言われるのと同じ意味でイルカやクジラはスゴイんだ─という考え方」(p.72)

 

「でも三沢君、ヨガの行者とか禅の高僧とか、ホントにすごいと思ってる?」

真紀さんの言い方は本気らしくて、ぼくも本気で少し考えて、

「思ってない」

と答えた。

「ほら。

ヨガの行者がすごいんだったら、海の底にいるタコだってきっとすごいのよ。禅の高僧なんかは徳が高そうなポーズを身につけてるだけなんじゃないの?

人っていうのは自分たちのいる世界と全然違う世界観みたいなのを持ってる人のことは驚くようにできてるのよ」

真紀さんの口調は少し攻撃的になっているみたいだった。

「─イルカが頭がいいかどうかっていうのも、何とも言えないんじゃないの。もしね、イルカが本当に自分たちの知能を人間の知能とまるっきり別の方向に伸ばしたんだとしたら、人間に使うものさしを使って比べたり類推したりしててもわからないわよね」

真紀さんの攻撃的な感じは消えていた。ぼくの思いすごしだったのかもしれない。

「ほら、ヨハネ福音書のはじめに『初めに言葉があっった』っていうのがあるじゃない」

「うん」

「─『初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった』っていうの。それから何だっけ?

細かいことは忘れちゃったけど─、すべてのものは言葉によって造られて、言葉に命があって、その命は人の光で、光は闇の中で輝いた。闇は光に打ち勝たなかった─っていう意味のことを言ってるでしょ?」

「うん」ぼくも真紀さんもキリスト教の信者ではないが、聖書の有名な箇所ぐらい知っていてもおかしくはない。

「─だから言葉が届かないところっていうのは“闇”なのよね。そういう“闇”っていうのは、そこに何があるんだとしても、もういい悪いじゃないのよね。何もないのと限りなく同じなのよね」

ぼくは黙ってビールの残りを飲んで、真紀さんの言ったことがわかりにくかったからかもう一度たどり直した。

イルカの知能は人間のものさしでは計れないと、まず真紀さんは言った。言葉は光であるというヨハネ福音書の言い方を借りるなら、言葉の届かないところは“闇”だということになる。“闇”には言葉がない。言葉がない、つまり言語化されなければ人間にはそこに何があるかわからない。何があっても人間には理解できない。言葉が届かないということは、何もない状態と限りなく同じである─と、堂々巡りのような論法だけれど意味としてはこういうことだろう。

ぼくはこのとき真紀さんの言ったことは、真紀さんがその場で考えたことではないはずだと思った。こんなこと即席に考えられるはずがない。これはイルカについてのことではなくて、真紀さん自身のことなのだろうと思ったけれどぼくは黙っていた。(p.74,75,76)

 

平安京なら造られてからずっと人がそこで生きてきたが、平城京は何もなくなってただ条里の形跡を留めるだけの平らな土地が残された。夏草だけが生えた何もない地面を歩きながらぼくは、長い長い空白の時間を越えて平城京の時代に生きた人たちのざわめきが聞こえてくるような気がしたのだけれど、真紀さんはそれはやっぱりただの空白でしかないと言うのだろうかと思った。(p.78)

 

東京画

 

あの二人の年寄りがああいうところで毎晩夕涼みをしているのは夕涼みが気持ちいいからやっているのではなくて、いままでずっとやってきた習慣だから今年もやっているし来年もやると考えることでぼくは一番納得がいくのだけれど、ある種のリアリティはそうやって習慣を習慣としてつづけることでしか確かめられないものなのではないかと思う。「ある種のリアリティ」というのをたとえば「生の実感」などと言ってみるといかにももっともらしく聞こえるのかもしれないが、そんなことはぼくは知らないし「生」などという言葉を使った途端にうやむやになってしまうものがあって、ぼくの考えるリアリティというのはそういうもので、毎日同じことを繰り返すというその確認作業のようなものの中にしかないリアリティというものがある。(p.107,108)

 

それでもたとえばこのパイプ椅子の老人が夏の夜にこの道に出てある時間をすごすようになったとき、それを自分の習慣として繰り返すようになったときにはここに一人だけでいたのではなかったはずで、そういう何十年か前に誰かと共有していた時間が確かにあってそのとにきはこの場所も老人自身もいまとまったくちがう何かとしてざわめきに包まれざわめきを自分自身でもつくり出しながら、何かを語ったとか語らなかったとかそんなことでではなくてただざわめきをつくり出すことだけが時間というものなのだろうし、その中にいるかぎりざわめきはいつまでもつづいていくように見えても現にこうして一人残されたそのときにはざわめきとともに時間も自分からは遠いものになっていて、それでもこうして毎晩繰り返すことでそれを一人で再現しようと意識していなくても結果としてそれをしているんだと考えることは必ずしもぼくの勝手な想像とも言いきれなくて、このパイプ椅子に力なく貼りつくようにしている老人を見なければぼくがこんなことを考えることもなかった。(p.114)

 

たとえばヒステリーというのはただのやっかいな状態ではなくて内面で起こっている本人も整理できない力による訴えかけだと推察することで精神分析という学問や治療がはじまって、ヒステリーという強い発作的な現れだけでなくアパシーという何もやる気のない状態も何らかの内面からの訴えといまではごく普通に考えられているけれど、この家もここの前に立ち止まるとここは何なのかと人に考えさせる程度には訴えかける外観になっていて、いまの状態にいたる経緯は別にしてもガラス戸の内側にカーテンを引くなり雨戸で閉め切るなりしてしまえばこの様子を人に見せないでおくこともできるのに現にこうして店のままにしておくということはやはりどこかでこの状態を人に見せて何かを訴えているのではないかと思う。(p.116,117)

 

プニャのように訴えかければそれに応えてくれる相手を持たずに一匹だけでいつづけたシロにはそういう人間とちかい感情が生まれて育つことがなかったようにしかぼくには見えなくて、欲求をあらわしてそれを返してくれる相手を持たないということはそういうことなのだろうが、それでもシロには細かくて素早い外への反応が絶えずあって、そういう反応が感情といえるようなものにまったく育たないとも思えなくて、それではシロの中でどんな波あったのかと思ってもそれ以上に言葉がなくてそこでどこにも進まなくなって、いつも食べ物を出していた時間にシロのところまで行って、そのときはじめてシロの死んでいる姿を短い時間でなく見た。(p.133)

 

夏の終わりの林の中

 

「─だから、ここは自然教育園なのよ」と、ひろ子は教育にアクセントをつけた。アオキのことにはこだわっていなかった。

「よくわからないんだけどね、ここは、この林が本来の自然の法則にしたがって変化していくように、人間の手がまるで全然入っていないかのように、手を入れているんじゃないかと思うの」

「『人間の手がまるで全然入っていないかのように、手を入れている』」ぼくはひろ子の言葉が気に入って繰り返した。(p.147)

 

「─しかし、囲うっていうのはたいしたもんだな」とぼくは言った。

「こんな日陰の雑草や山にボコボコ生えてた木なんかが、ちゃんと意味を持ってるように見させちゃうんだもんな」

ひろ子は返事をするより、ここで二つに分かれている道のどっちに行こうか少し迷って、「じゃあ、もっとじめっとした方に行こうよ」と言った。(p.148)

 

ぼくはチアキがこの夢の話を聞いて、何かとんでもないことに思いあたっちゃったらどうするんだと言った。夢はぼく自身が意識していくらがんばっても制御できないところで、勝手に動いているものじゃないか。

「写真みたいね」とひろ子が言った。

「外で写すと思いもしないものが写っちゃってて、足をひっぱるの」

そんなことよくあるじゃないか、それと夢は違うんじゃないかとぼくが言うと、素人写真と一緒にしないでとひろ子は言った。

「プロはフレームの中にあるものぐらい全部意識できるの。

─でも、そういう意識をかいくぐって写っちゃうんだなァ」

下の小径がしばらくつづき、下りきるとまた空間が開け、水がまったく動いていないような、水面がどす黒く見える池があった。池ではなくて沼なのだとひろ子が言った。沼なんてはじめて見たのかもしれない。「水鳥の沼」という、きれいなような汚いような名前がついていたが、水鳥は見えなかった。車の騒音が斜め上から聞こえていた。すぐ脇を首都高速が通っている。ここは自然教育園の敷地のはずれにあたることになる。ぼくはこの沼に来るまでまったく外の騒音を聞かなかった。自然教育園というところは全体が外の騒音から隔絶された場所だと漠然と思っていた。

「ねぇ?

きっとそれは、何もない夢なのよ」

ひろ子が言った。

「『よく見る』と思って、じつは見てない。『何か大事なことを見た』と思って、じつは何も見てない。『延々とつづいた』と思って、じつはつづかなかった。

─って、そういう夢なのよ。

だから、家の中に入っても何も起こらなかったし、家なんて本当は外観も何もなくて、ただ“家”っていう言葉のイメージだけだったの。(p.152,153,154)

 

「人間の手が全然入っていないかのように人間の手を入れる」という言い方を、さっきぼくは抽象的な表現と解釈した。ひろ子の方は、カメラをのぞき被写体をいじって配置をわざと雑然とさせるというような感覚で言ったのかもしれなかった。

「そうか、あの夢は何もないといっている夢だったのか」

ぼくはきっとだらしなく頬を弛ませていただろう。「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかもねむ」という和歌を思い出した。ぼくはこの歌が好きでたまに思い出す。「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の」まで、つまり上の句全体が「長々し」を導く枕詞になっている。意味だけで言うならじつに空疎な歌だと思う。ひろ子の解釈では、一年も気にかかっていた夢がそれ以上に空疎なものになった。ぼくはそれが不満なのではない。がっかりしてもいなかった。そういう無意味さが好きなのだ。

あるいは、「長々し夜をひとりかもねむ」という気持ちを出すためにあれだけ長い前置きを必要とする人の心の働きがおかしいのと同じように、「何もない」というためにいかにも何かありそうな夢を作り出した心の働きがおかしい。(p.154,155)

 

「─だから、秋口のものがなしさとか感傷っていうのは、一つ一つの事柄が原因じゃなかったの。

季節っていうか、季節の記憶っていうか、それがこの年になると心の中にけっこう厚い層になってて、その厚みだけで何かがあるような気がしてくる、─問題はその厚みの方だったって─」(中略)秋になって感傷的な気分になるわけは、そこに何か感傷的な気分にさせるものがあるわけではなく、思い出が増えたからでもなく、たんに習い性とか条件反射のようなもので、秋になれば「秋なんだなあ」という思いの型が生まれ、冬になれば冬になったで「冬になったんだなあ」という思いの型が生まれているだけなんだと言った。思いの型というのは中身の思いがカラッポでもいっこうにかまわない。感傷を感じるのは中身ではなくて、むしろ型の方の働きによるんじゃないかと言った。(p.157,158)

 

心はそういうものだっていう、錯覚を持ってる人たちがいるよね。テレビ観ても映画観ても、感動っていうか劇しい心の動きだけ強調したがる人とか─。

でもそういうことじゃなくて、喜びとか怒りとか、そういう劇しい動きがなくなっても、心というのは無機的に、一定のリズムみたいなものを打って存在しているものなんじゃないかなあ─。(p.159)

 

「この『動物は植物とちがって自分で栄養分を作ることができません』っていうのがいいと思わない?」

と言った。

「あたし、これ読んではじめて、そういうことだったのかァ、って知った」

ぼくも同じだった。

「動物が自分で栄養を作れたら、こんな世界にはならなかったってことだな」

ひろ子の返事は聞こえなかった。

ぼくは、そうしたら人間は労働をしないで生きることができたんだなと言った。歌を歌っていたければ何年でも歌い、ギリシャ人のように思索していたければそうしていればいい。何を選ぼうが食うこととそれを無理につなげる必要がないのはとにかくいいことだとぼくは言った。佐伯さんのことを考えた。正確には「たまに働いていることに限界を感じるよ」というときの佐伯さんのことを考えた。(p.170,171)

 

「そうじゃなくて、『キミたちの目では見られないことが、この林という舞台の裏ではいっぱい起こっている』っていうことを教えちゃえばいいんじゃないの?

自分の目で見えることだけを信じていてはいけない。そんなものはたかが知れてるんだ、って─。

だから『木を見て森を見ず』なのよ」

ひろ子は「木を見て森を見ず」の意味を突然間違えた。使い方がおかしいぞとぼくが言うとひろ子は間違いに気づいて笑い出した。しばらく一人で笑っていた。

自分の目で確かめられるのは“木”の方だけで、“森”あるいは“森の法則”は見えないんだと思っていたら、諺がそのとおりの意味にバケちゃったんだと言った。そんな馬鹿なことが起こるとは思えなかったが、とにかく起こった。(p.180)

 

こっち側の木と違って向こうに見えている木は真っ直ぐに伸びていない。幹が曲がりながら斜めに伸び、幹から枝が水平にちかく横に広がっていた。枝は地中に広がる根のようだった。

ひろ子は笑って「それが枝なのよ」と言った。

枝を言うには枝でないものを引っ張ってこなきゃいけないのが言葉の特徴であり、限界というものだとぼくは言った。(p.182,183)

 

『これからは林床はいっそう暗くなり─』っていうのが、預言者の言葉のようだと思わない?」

ひろ子はこれを預言のようだと言い、ぼくは無機的なものの浸食のように感じた。林という有機的な動きをしている場所の中に、極めて動きの乏しい一画が育つのをぼくは無機的なことと感じた。(p.184,185)

 

「木を見て森を見ず、なんじゃなかったっけ?」とぼくは言った。

見えるものなんてたかが知れている、森という舞台で起こっていることは目に見えない。ひろ子は黙って三回、四回とシャッターを押した。あたしは森を撮りたいなんて思っていないと言った。

「シュロの無表情ぶりを撮りたいだけ」と言った。(p.185)

 

夢のあと

 

「はは、『変なの』って、変なコトバだよね」

「なんで?」

「だってね、『変なの』ってコトバの使われ方をきいてるとき、あれって、形容詞じゃないんだよね。相手のことを言ってんじゃなくて、本当は自分の感じ方とか気持ちみたいなのが、クラっと揺れたことを言ってんだよね」

「でも、形容詞じゃない?」

「でも、違うんだよ。

『アハッ』とか『ひょ』でいいんだよ」(p.204,205)

 

涙なんて、二十五過ぎると意味と関係なく出るようになるんだから。だから、あんなもん信じちゃいけないんだよ」

「あんなもん……」

「『あんなもん』なんだよ。涙なんて。

『スプーン曲げで曲がったスプーンと自分の涙は信じちゃいけない』って、言うだろ?」

「誰が言ったの?そんなこと」

「おれが言ったの。いま」(p.211,212)

 

「ある日、工事の人たちがやって来て、ぼくたちの場所が奪われた……」

と、映画によくある子ども時代の回想の独白のようなことを言ってみたのだけれど、笠井さんはちっとも調子を合わせないで、

「だから感傷はダメなんだよ」

と言ってきた。「だからさあ」と、そこで少し考えてから、

「そういうことを認めるっていうか……、なんていうか、感傷的なことが好きなヤツらっていうのは、つまりね、そういう風に失ったり奪われたりするのを、本当は心のどこかで待ってるんだよ」

と、大真面目なことを言ってくるから、今日の笠井さんは手ごわいと思ったが、笠井さんはそれだけではなくて話をつづけてきた。

「それにね、『工事の人がある日来ていた』なんて、そんなはっきりしたシーンには出会えないんだよ。そんなの、できの悪い映画や小説の中だけ。

せいぜい、何日か来なかったあいだに地面が掘り返されていたとかね。そんなもんだろう?実際は。

で、それを見ても、子どもはそれを劇的なシーンだなんて捉えないよね。

きっと、子どもにかぎらず、その場にいあわせた人間なんて、何が起こってるのかなんて、わかっていないんだよ」(p.220,221)

 

外に出て、れい子が汗かいちゃったなんて言ってハンカチを鼻や頬にあてているのを見ているうちに、ぼくは夢のあとみたいだったという感想を言いたくなって、二人に聞こえるようにそう言ったのだけれど、笠井さんは、「うーん」というような低い声をさせながら考えて、そしてまた、

「─ていうか……」

と考える時間をつくってから、

「そういうのって、なんか、簡単すぎるじゃない」

と言ってきた。

「なんかさあ、『夢のあとみたい』とか言っちゃうと、それで、何か言ったような気になっちゃうけどさあ。でも、本当はそういうのって、何も言ってないのと同じことじゃない」

そう言われてしまうと確かにそうなのかもしれないと思って、変な言葉だけど、ぼくも自分の見てきたものに対して誠実じゃなかったと思った。そうなると今見てきた、もうじき取り壊される幼稚園や、その中で積み上げられていた嘘みたいに小さかった椅子や、何もなくなっていた子どもたちの部屋なんかをうまく言える言葉が全然なくなってしまって、笠井さんはどうなんだろうというようなことを訊いてみると、笠井さんは、

「わかんない」

と、ぶっきらぼうに答えて、そこで一度笑ってから、「はじめての経験だから、表現のしようがないよ」

と言って、れい子とぼくを見てもう一度笑った。(p.236,237)

 

 

時間の遠(大貫妙子

 

小説というのはおもしろいと思った。これは誰のものにもあてはまることではないのだけれど、個人が正面きって言ったら、何万本もの矢が、真っ向から飛んでくるようなことを、作中の誰かの言葉として読んでいる、語らせてしまうから、矢のほこさきがそれてしまうというところだ。まず、文字に置き変わっているし、その「言葉」を言わしめる過程の物語があるから、その「発音」がいかに過激でも、そこで火花が散る!というまでにはいたらない。(p.241)

 

保坂さんの小説に登場する人たちの、背景にあるものは、あまり説明されない。読み進むうちに、だんだんと、どんな人なのかがわかってはくるが、それも、どんな姿なのかとか、どんな服をきているのかとか、どんな、生い立ちなのかとか、読み手の想像に託される。読み手は何によってそれを想像するかというと、その人の話す「言葉」によってだと思う。

会話によって、物語が成り立っているから、言葉のもつ力が鮮明に印象づけられる。(p.242)

 

図書館大戦争


「深く研究するとね、アレクセイ。とはつまり、複雑で幅広い心身のスペクトルを伴って遠隔作用する信号・記号構造なんだよ。調合された薬剤と呼んでもいいし、プログラムと呼んだ方がいいかもしれない。どの=プログラムも、同居するサブプログラムを内包している。サブプログラムというのは、コード化されたサブテクストで、集中して通読するという二つの条件を満たすと活性化する。内在するプログラムは意識の外にこぼれ落ち、無意識の領域へとアグレッシブに侵入して、知覚システムや思考・生理のプロセスを一時的に変える、あるいはデフォルメすると言った方がいいかな。内在するプログラムが、読書する人間の個性を無力化するんだ。個人の精神活動の弱体化を背景に、心理プロセスの荒っぽい修正が行われる。その結果、内的資源、つまり記憶や感情を司る頭脳センターに対する超刺激効果が起こる。私の説明は訳がわからなすぎないかな?......最も興味深いのは、内在するプログラムは外的芸術的レベルでは発見されないことだ。というのは、それはプログラム=本の全情報フィールドに分散しているからなんだ。内在するプログラムは、の音響学的・神経言語学的、意味論的領域にだけでなく、視覚的領域─つまり、活字や紙、組版、書物の体裁などの印刷物の中と、そして非常に重要なのが、時間領域にも存在する。何が言いたいかというとね、アレクセイ。コピーしたものは決して一九七七年版の本の代わりにはならない、ということなんだ。二〇〇〇年の製品を一九七七に出た製品に変えるような手段も技術も、この世にはない。を模造することができないもう一つの理由はには時代の蓄積が内包されているからなんだ……」(p.169,170)

 

「沢山の祈りを捧げられた聖像(イコン)があるように、私たちののように何度も何度も読まれたがある。なるべく頻繁に読みなさい。そうすれば恐怖心に支配されなくなるから……」(p.187)

 

まさにこの柄杓の中にフョードルの焼けた遺骸が象徴的に納まっているとイーゴリは考えたいのだ。出来上がった鋳物は、墓碑銘であり棺であり故人であり墓だった。(中略)生前不撓不屈で頑丈だった男は、死後鋳鉄と化したのだ─そう思うと厳粛で崇高な気持ちになった。(p.224,225)

 

「だけど、何かを見溜めたり聞き溜めたりできると思う?記憶なんてはかないものよ。記憶は有機体として弱いから、死なないように丈夫な体に寄生しなければならないのよ。記憶の書は最適な身体提供者(ドナー)で、幸福な過去、体験した楽園の強力で円滑な発生装置なの。弱い人間の記憶がこんな巨大で複雑なメカニズムに追いつけると思う?あなた自身納得したでしょう!」「マルガリータ、僕は、この現象の価値に異議を唱えるものではありませんが、これって事実上幻影でしょう?」「幻影で結構!(中略)あなたにはまだ、自分が体験した本物の過去が一つしかないけど、あの人たちにはもう過去が二つもあって、それも一つは本当に素晴らしい過去なの。それにすがっているのよ。ところが今回厄介なことになってしまった。過去は色褪せないように、常に育てて行かなければならない。つまりを読み直すのよ。を失うということは、永久に過去の幸福に没頭できなくなるということ。それも、単に過去の幸福を思い出すだけでなく、その時の感情そのままに改めて体験するのよ。これは大きな価値があるわ。あの人たちは今、心理テストのようなものを受けているところなの。のために死ねるかという……」(p,238)

 

〈たゆまぬ詩篇〉は存在する。うちにグリーシャが来て説明してくれた。メモしておいたよ。詩篇は来る日も来る年も休みなく読むものなんだ。読み手を次々と替えて。それも、一番良いのは、途切れることなく読み続けることだそうだ。途切れるとそこに割れ目ができて、悪魔が入り込んでくるらしい……」頭の中で、一瞬にして巨大な血管が膨れ上がり、破れた。オレンジ色の炎熱が両目に溢れた。(中略)無が急速に退き、頭がすっきりした。たゆまぬ詩篇という言葉が具体的な意味を持ったのだ。には意味はなかったが、意図があった。その意図とは、私がよく覚えているロシアの民芸品パレフの小箱の三次元パノラマで光沢のある漆塗りの下地に描かれたソ連の聖像画のようなものだ。(中略)意図が私の前に、黒いパレフの小箱の世界を開いた。過去と未来の破局の忌まわしい事件の数々が、真っ黒に磨かれた小箱の表面に赤い水銀となって滲み出てきた。ソ連という祖国の心臓がごく小さな二極管(ダイオード)となって鼓動するその場所を激しい衝撃が襲い、ぶつかった地点から、細い、蜘蛛の肢のような地理の裂け目が走った。境界の輝く管が粉々に砕け、共和国間の縫い目がほどけ、新しい弱体化した国の穴の開いた境界線上に、太古からのが現れた。は海に、海底の動き一つ一つを捉える音響ブイを撒き散らし、宇宙に完全制御の魚網を投げた。見えざる手が、ダイヤモンドでできたガラスカッターで、脆い連邦の裂け目を深くした。この裂け目に沿って、壊滅的で最終的な将来の分裂が起こるのだ。すでに工業都市の地下を掘って特別な貯蔵庫が作られており、そこに入ることができるのは、秘密を守る、横柄で汚らわしい顔をしたヤンキーたちだけだ。は、触れもしないのにすべてをだめにした。(中略)を阻止することはできない。スーツケース入りの赤いミサイル発射ボタンはとっくの昔に根こそぎ引き抜かれている。だがたとえ発射ボタンがあったとしても、ミサイルは発射できないだろう。ミサイル発射サイロ内部が削り取られているから。大陸間弾道ミサイルは、平和条約によってとっくに分解された。飛行機は離陸しないし、原子力潜水艦もドックを出て行かない。戦闘用の電子機器は敵の信号の悪影響を受けてとうにだめになっている。誰も助からない。だが、秘められた七冊の書を持つ特別な人物がいる。彼にはわかっている─が次々に休みなく読まれている間は、恐ろしいは無力だということが。国は目に見えない円屋根、素晴らしいカバー、誰にもわからぬ円天井にしっかりと覆われている。この円天井は世界で一番硬い。なぜなら、善なる記憶、崇高な忍耐、心からの喜び、強力な、神聖な権力、高潔な憤怒、そして偉大な意図という揺るぎない支柱に支えられて建っているからだ。私の眼前に、無数の年月がバラバラのイメージの列をなして伸びていた。窓にビロードの分厚いカーテンのかかった、小さな部屋の質素な事務机に向かい、人が坐っている。緑色のシェード付きの大理石のランプから、机に開かれた本のページに光が差している。誰もその部屋に出入りする者はいない。私たちは読み手を背後から見ている。猫背の両肩や、ちらちらする光の冠をかぶったような俯いた頭が見える。の読み手は、疲れも眠りも知らず、食事も不要だ。死はその献身的な労働よりも小さいものなので、彼を服従させることはできない。この読み手は、永続的な祖国の守り手だ。宇宙という広い場所での当直。労働は永遠に続く。守られている国は堅固だ。それが七冊の意図だった。(p.250,251,252)

 

もし、意味に逆らって、意味を体現しているヴァージンツェフを殺したら?そうしたらどうなる?はどうやって窮地を脱するんだろう?!」(中略)「ヴァージンツェフを消した。ところが本がまた同じ姓を呼ぶじゃないか。(中略)「お前なんか問題じゃないんだよ!ろくでなしめ!お前が本を受け取ったのも単なる偶然さ!私は魔が差したんだよ!どうやら頭がおかしくなりかけてたらしい!お前は特別な人間じゃない!状況でこうなっただけさ!」言葉を発していなければ、老婆は、牧羊犬のように真っ赤な歯茎で私の喉に噛みつこうと、歯をカチカチ鳴らしていると言った方が近かった。「は自らを求める者を自由に選ぶ!自らの影響が及ぶ範囲に巻き込まれた人間なら誰でも指名するんだよ!お前がいなくなれば、別の人間の名を呼ぶのさ!」(p.355)

 

「私たちは皆、祖国に、恩返しできないほどの恩を受けています。祖国からの贈り物は極めて貴重です。どの人にもルビーのように赤いクレムリンの星々が輝き、自由、平等、友好の光で温めてくれるのです。幸せになるためにこれ以上何が必要でしょう?!祖国は善良で鷹揚で、施した恩を数えません。ただ、恩を思い出させることはあります。祖国が危険にさらされた時、勇気、不屈、大胆、献身によって祖国に恩返しをしなければならないのです。」(中略)「国を船に譬えたら、ソヴィエト連邦は世界艦隊の旗艦です。他の船を従えています。国を人に譬えたら、ソヴィエト連邦は敵を打ち負かし困っている友達を助ける力強い勇士です。国を星に譬えたら、ソヴィエト連邦北極星です。世界のすべての民族に共産主義への道を示しているのです」(p.370,371)

 

姿を消した国が、施した恩のぼろぼろになった手形を、無から何枚も突きつけてくる。何年も前に私が軽率にもサインをしてしまった手形だ。そうして粘り強さや勇気、英雄的な行いを要求したのだ。すべては筋が通っていた。私は、遅れてではあったが、ソ連という祖国が約束した、とても考えられないような幸福を手にした。記憶の書が作り出す偽りの幸福ではあったけれど。だが、それがどうしたというのか……。だって私は子供の頃、本や映画や歌で賛美された国家を自分が住む現実だと信じていたではないか。地上のソ連は粗雑で不完全な物体だったが、恵まれた都市の家庭の理想主義的な老人や子供の心の中には、それとは別に天上のソ連という現実的理想が存在していた。知的空間の消滅とともに、生命のない地理上の物体も死んでしまったけれど。ソ連という国とその過去を憎むことが良い態度だと社会が考えていた、ソ連崩壊前後でさえ、私は直観的に、矯正労働収容所の『アルバート街の子供たち』や『白衣』を着て歩く者たちについての、がめつい鳴き声をあげるカモメたちのような暴露的長編小説を敬遠した。現実なのか創作なのかわからない中途半端な事実もそうだが、しかめ面の著者たちに特に困惑したのだ。あの人たちは、過ぎ去ったソ連という時代の犠牲者のよく響く頭蓋骨で机を叩いたが、そのカタカタという音を聞いても私のソ連観はちっとも変わらなかった。大人になった私は、ソ連の実像ではなく、状況が違えばそうなっていたかもしれないソ連像を愛した。生活苦で自分の長所を発揮できなかったからといって、善人を咎めることはできないではないか。もう一つ何年も経ってから、逆説的だが重要だと気付いたことがある。ソ連の一部だった時はウクライナ祖国だったが、ソ連崩壊で独立国になると祖国であり続けることができなかった、ということだ……。私にとって、現実と虚構の二つの子供時代のあった国ソ連は、拒むことのできない唯一の本当の祖国だった。そして、お盆の上に置かれた記憶の書は、その祖国からの恩を返せという催促状だった……。(p.371,372)

 

今、外では西暦何年だろう?祖国が自由で国境が不可侵ならば、司書アレクセイ・ヴァージンツェフが地下倉庫で粘り強く当直し、疲れを知らずに国の上に広げられた防御の覆い(ポクロフ)の糸を紡いでいるということだ。見える敵と見えざる敵から祖国を守るために。(中略)私は決して死なない。そして、緑色のランプの灯も消えない。(p.376)

 

松下隆志「再定義される社会主義リアリズム─ミハイル・エリザーロフ『図書館員』をめぐって」『ロシア語ロシア文学研究』第四十五号、二〇一三年

文学テクスト入門

時間の流れが無化されてしまう、居心地のよい桃源郷のトポスに包みこまれていた。この至福のいっときを表現するに足るさまざまなジャンルを検討するうちに、彼が思いあたったのは、「絵画と同じく空間的に景物を配置したのみで出来」る漢詩の可能性である。まさに『文学論』の応用篇であるが、画工が制作する漢詩がほかならぬ桃源郷のトポスから生み落とされているところに、ユートピアの表現が同時にまた表現としてのユートピア、つまりは文学のユートピアでもあるという円環的な構図を読みとることができる。(中略)小説の筋をはじめから終わりまで追うことになずんでいる那美さんにたいして、画工が提示しようとした時間の流れを自由に切断し、停止させる読み方は、まぎれもなく「読書のユートピア」を志向している。(中略)「普通の小説はみんな探偵が発明したものですよ。非人情な所がないから些とも趣がない」(p.19)

 

言葉の呪術性というものに強い信頼を寄せていた。たとえば『八犬伝』に登場する伏姫でありますけれども、この「伏」という文字は人偏と犬から成り立っている。伏姫の後の運命、つまり八房と通じて、そこから八犬士が誕生するという物語が、実はこの伏姫という名前のなかに予め仕掛けられているという発想である。馬琴はこれを名詮自性という言葉で言っているわけですけれども、その名詮自性、つまり伏姫が人偏と犬の組合せからなっているのは、物語、あるいはエピソードが終わった後になって明らかにされる。ですから、それは伏姫という作中人物にとっては、どうにも変えられないしるし、宿命のしるしとしてある、そういう運命が名前に埋め込まれている、そのように考えることができます。この考え方を転倒すれば、言葉を変えることによって現実を変えることができる、そういう発想に行きつくのではないか、そういうふうに思うのです。(p.45)

 

あの時点において、小説とはまさに言語テクストである、という実に簡単な原理をもっとも強く信じていたのは、極言すれば緑雨一人だった、そういうふうに言うことができるかもしれません。文学テクストは言語そのものとして自立している、(中略)これは、透明な記号の背後に観念、思想、内面、美、高尚、それらのものが描きだされなければならないいとする、二十年代初頭の文学観に真っ向から対立するものであった。(p59,60)斎藤緑雨『油地獄』『かくれんぼ』

 

透明な記号の向う側に、観念があり、あるいは思想があるという、そういう小説の書き方、発想が、言語そのものをどういう具合にこわしていくか、江戸文学がもっていた洗練された言語のシステムをどういうふうに破壊したか、それを緑雨はパロディ形式を借りることによって、見事にあばきだした。たとえば、緑雨を文壇に登場させる出世作になった『小説八宗』という有名なパロディがありますけれども、そのなかに二葉宗というのがありまして、二葉亭の『浮雲』が皮肉られている。タバコを吸う場面。「煙管を持た煙草を丸めた雁首へ入れた火をつけた吸つた煙を吹いた」という言文一致の文体がもっているリダンダンシー、冗長度というものをパロディのかたちで的確にあばいている。二葉亭の言文一致の文体は、もちろんその背後に文三のさまざまな思念が描かれているのですけれども、緑雨のパロディは、その思念をからっぽにすることによって、文体の冗長さを誇張したかたちで描き出してみせた。パロディというのは本来、反復と差異という二つの要素を含んでいるのですけれども、その反復と差異の図式によって言文一致体の、言語テクストとしての不安定さを見事にあばきだしている。そういうことだろうと思います。(p.61,62)

 

言葉というものは身体に根をもっている、そして身ぶりによって精気づけられているのだが、その身ぶりに支えられない言葉は、ちょうど植物のように、枯れてしまわないまでも朽ち果てて(p.63)

 

文章というものは主語によって統合されていますが、述語による統合を浮かび上がらせることによって、われわれは心とからだの問題を照射することができるのではないだろうかと思うわけです。(p.67)

 

われわれの身の統合は、いま現実化している統合だけではなくて、さまざまの統合の可能性がある。一つの統合がなされたときに、排除されてしまう無数の可能的あるいは潜在的な統合がある。こういう潜在的な統合可能性を含めた身体というものを、市川さんは錯綜体と名付けているのです。この錯綜体という考え方は言葉というものを考える上で非常に貴重なヒントを含んでいます。(p.76)市川浩『〈身〉の構造』

 

サンタグム、統合関係の軸であり、もう一つは、パラディグム、連合関係の軸である。普通、文章は線条的(リニア)な構造を持っていて、サンタグムの軸によって語が線的に連結されるのですけれども、その連結された系列は、それによって排除された語を潜在的に包含している、こういうことです。たとえば、「桜が咲いた」という一つのセンテンスがあるとすれば、その「桜」は、そこに選ばれなかった「梅」であるとか、「桃」であるとか、そういう言葉を潜在的に含んでいる。あるいは「咲いた」という言葉は、「散った」という言葉を潜在的に含んでいる。その潜在的に含んでいる軸が、パラディグムの軸になるのですけれども、このパラディグムの軸、これを市川さんは錯綜体とのアナロジーで考えていく。日常的な言語は、錯綜体を抑圧することで成り立っている。しかし文学テクストは、むしろわれわれの身体の潜在的な統合を引き出す作用を持っている。あるいは、プレテクストを引用することによって、重層的な、また多元的な構造を文学テクストは持つ。そしてまた、日常言語の一義性に対して、文学テクストは必ずある曖昧性を持ってくる、こういうことを言っているのです。(p.77)

 

潜在的な統合総体を含めた錯綜体という概念は、主語的統合と述語的統合という対立項によっても説明されています。(中略)「人は死ぬ。しかるに草は死ぬ。ゆえに人は草である」、こういう論理の展開であって、これが通常の理解では偽の論理であることは明らかです。こういう論理は、述語によって統合がなされている。つまり「死ぬ」という述語によって「草」と「人間」の同一性が証明されている。それでこれは普通は精神異常ないし狂気の言語として処理されている、こいうわけです。しかし、文学テクストの言語は、実はこの述語的統合によって、主語的統合によっては見えない世界を切り開いている場合が非常に多いのです。(p.78)ベイトソンダブル・バインド理論

 

グループuというグループ名で書かれた『一般修辞学』のなかに、この提喩の分類が載っていて、これはかなり有名な定義になっています。一つは、Π(パイ)型、一つはΣ(シグマ)型。「木」という言葉があるとすると、その枝とか幹とか根とか、そういう部分によって全体を表す、これがΠ型の提喩(シネクドク)というわけです。もう一つ、木には松があり栗があり楢があり杉がありますが、この類と種の関係がΣ型の提喩である。(p.84)古井由吉「円陣を組む女たち」の〈女〉にとって、少女、学生、主婦、中年女性、老婆、こちらのほうは、Σ型の提喩であり、上半身、下半身というのはΠ型の提喩になっている。

 

また「傷口につけた薬が身にしみる」というのは、生理的レヴェルの出来事ですが、「世間の冷たい風が身にしみる」となると社会的存在のレヴェルの出来事であり、「人の情けが身にしみる」は心のレヴェルである。しかし、それは生理的レヴェルの身にしみると無関係ではない。むしろ、生理的レヴェルの身にしみるがもつ切実さが斜行的に上のレヴェルへ移行していく。その関係はある意味でメタフォリカルな関係です。このメタフォリカルな関係は、単なる文学的表現の問題ではなくて、われわれの存在そのものがメタファを成立させるようなそういう構造をもっていると考えたほうがいいのではないか。

つまり言葉というものがわれわれの身体を根として立ち上がってくる。生理的なレヴェルの認識を根として、それが時によっては心理的な認識、あるいは社会的な認識というものに拡大されてくる。(p.89)

 

主語的統合の言葉は、いわばツリー型の言葉であり、切る言葉であり、分類する言葉であるわけですけれども、述語的統合、この石牟礼さんの「生き供養」の場合には、「血のきれにつながっとる」という、この中年女性の言葉が、見えなかった輪を見えるようにし、人間とさまざまな生物を結び合わせるのです。まさに切る言葉ではなくて、結ぶ言葉になっている。つまり「血のきれ」という言葉によって、いままで見えなかった世界が見えるようになる。(中略)われわれと世界を一つに結ぶ言葉というものを提示してくれる文学テクストの一番根源的な形が現れているのではないか(p.91)

 

最初に文学テクストを読むかぎりでは、作中人物のコード、あるいは物語のコードに即して読んでいる場合が多いわけですし、そこにいわばだます仕掛けとしての小説というものがある。しかし、一つの作品を二度、三度読み返す。この場合、二度、三度読み返すことが可能なテクストという条件を保留しなければなりませんけれども、物語あるいはその作中人物というコードとは違ったコードが当然みえてくる。つまり今まで文学作品を読解していくための中心的なコードであった物語、作中人物、このコードをいったん消してみる、あるいは括弧にくくってみる、あるいは脱中心化してみることによって、文学作品は新たな相貌を表しはじめる。これは作品がその制作された時代を超えて生き延びる重要な条件ということもできるかと思いますけれども、物語のコードが信じられなくなった、あるいは衰弱した現在から逆に、これまで書かれた明治、大正の文学作品を相対化していく、あるいは─ここで脱構築という言葉を使っておきますけれども─脱構築していくことによって、今まで顧みられなかった作品を蘇らせる可能性が開けてくるのではないかと思います。(p.114)

 

文学テクストの解釈をすすめるためには、まずテクスト・ウィズィン・テクストから入らなければならない。しかしそこからさらにテクスト・アポン・テクスト、さらには批評性をもったテクスト・アゲインスト・テクストへすすまなければならない。(p.117)

 

テクスト・ウィズィン・テクストとテクスト・アポン・テクストという読解は、ゲシュタルト心理学でいう、図と地の関係にあたると言っていいと思います。つまり物語のコードを中心化してテクストを読み進める読者は、いわば無意識の領域に排除されたコードを沈めているわけです。ですから、無意識の世界に沈められたコードを、意識化していく操作、これがテクスト・アポン・テクストの操作、そういうふうにいうことができると思います。(p.119)

 

一つ一つの言葉を支えていた風俗、つまりコンテクストが次第に忘れ去られることによって、いわばコンテクストは至るところに穴があく、腐食されていくのです。文学研究の基礎的な作業である注釈というのは、単にテクストを読みやすくするという目的だけではなくて、いわば虫喰いだらけになったそのテクストの空白部分を補うことによって、もう一度文学テクストを同時代のコンテクストのなかに置きなおす、そういう目的をもっている。(p.123)

 

インターテクステュアリティという概念は、テクスト間の相互作用に注目することを意味しています。すべてのテクストは先行するテクスト、プレテクストからの引用であり、そしてその引用されたもののモザイクであり、またその変形である、こういうふうに規定されているわけです。(p.124)ジュリア・クリステヴァ『セメイオケチ』バフチン論、カーニバルの言語

 

主人公の津田が痔の手術の保養のために温泉に出掛けて、昔、お延と結婚する前になんらかの交渉があったらしい清子という女性とめぐりあう。(p.136)夏目漱石『明暗』

 

鴎外の『雁』という作品です。この作品は、物語の終わりのところに、一つの偶然が仕掛けられている。鴎外は、これをグリムの童話から「釘一本」とよんでいる。つまり釘一本が足りないために、車輪がばらばらに壊れてしまう。(p.139)

 

すなわち、虚構テクストは、支配的な意味システムの再生産を行うわけではなく、むしろ、どの支配的意味システムの中にもある潜在化され否定され、従って排除されたものと結びついている。これらのテクストが虚構的であるのは、対応する意味システムも、その働きをも直接指示することはなく、むしろ意味システムの陰の地平ないしはその境界に焦点を合わせているからである。すなわち、虚構テクストは、システム構造の周縁ないし、境界を示すものに出発点をとる。

マシュレーの場合には、文学テクストを総体的に考察するためには、テクストが排除したもの、そのテクストの不在の部分を取り込まなければならない、そういう提案をしているわけですけれども、ここでイーザーは、文学テクストというものが、その文学テクストが書かれた同時代の支配的意味システムのなかで否定され排除されたもの、それに結びついている、こういう言い方をしている。(p.144)

 

このイーザーの理論、つまり支配的な意味システムから排除され、否定されたものと文学テクストが結びついている、あるいは支配的なシステム構造の周縁ないし境界を示すものに文学は出発点をとるという、この定義をさらに拡大すると、文学テクストというのは、絶えずユートピア的なるものを目指している、そのようにいうこともできるかと思います。つまりユートピアというのは、前からいわれていることですけれども、二つの語義を含んでいる。一つはエウトピアであり、一つはオウトピアである。「エウ」はギリシア語で、戯れとか幸福とか楽しいとかそういう意味をもっている。「オウ」は、どこにもないという意味です。ユートピアというのは、この、どこにもない、そして楽しい場所、そういう両義性をもっている。つまり文学作品は、支配的な意味システムから欠落している部分、そういう世界を描く。つまり支配的システムにない場所、トポスをつくり出す。支配的な意味システムの生真面目さに対して、戯れというものを対峙させる。そういうトポスとしての文学作品がある、そのように理解すべきではないかと思うのです。(p.147,148)

 

物語の構造を、一定の順序に従って継続する極の鎖の形になぞらえてしまうかわりに、われわれは、物語の構造を、いくつかの連続の並列と考える。それらの連続は、重なり合い、結びつき合い、交叉し、筋肉繊維や編み紐の条のように吻合されている。(p.160)

 

循環し流動する資本の運動が、余五郎の行動を駆りたてているこの強制は、同時にまた彼が取結ぶ性的関係のモデルでもあるだろう。余五郎にとって性的行動は経済的営為の暗喩であり、女性の征服は貨幣の取得と等価なのである。しかし、余五郎自身は、経済的人間(ホモ・エコノミクス)の論理をその性的行動に転移させていることに気づいていない。彼がとらわれている性的幻想が、経済的営為の論理を隠蔽している構造に、『三人妻』に仕掛けられているもっとも辛辣なアイロニーがある。(p.172)

 

余五郎の遺産に狙いをつけたこの紅梅の企みは、所有された貨幣としての彼女が、逆に貨幣の所有者に変身しようとする運動といいかえてもいいかもしれない。この二人の動きが、貨幣を蓄積する衝動を性的幻想にすりかえてしまった余五郎への裏切りを意味していたことはいうまでもない。(p.174)

 

三人目の女の神話的祖型、フロイト「小箱選びのモチーフ」ヴェニスの商人の小箱選び、リヤ王のコーディリア

 

「筋(ファブラ)は基本的な物語の要素を表している。それは虚構テクストのなかで関連づけられた出来事の総和であり、いわば物語を構成して行く素材である。これにたいしてプロットは、作者の意図にそくして語られた物語であり、それぞれの出来事を統合する方法を意味している。芸術的な構造をつくりだすためには、筋(ファブラ)という原素材は、プロットとして構築されなければならないのだ」。シクロフスキーの理解するところでは、物語と物語られた出来事の差がプロットとストーリイの差であり、両者は手法と素材という関係でとらえられる。この対立が芸術言語/日常言語、異化作用/自動化といったロシア・フォルマリズム独特の対立項の組合せのなかに組みこまれていることはいうまでもない。このシクロフスキーの図式を拡大解釈すれば、ストーリイとプロットの関係は、プレテクストとテクストの関係に置換することができるはずである。(p.181)

 

プレテクストとしてのストーリイの機能がもっとも効果的に発揮されているジャンルの一つは古典的な推理小説の場合だろう。たとえば、シャーロック・ホームズの物語は、ふつうベーカー街を訪れる依頼人の犯罪物語と、ホームズとワトソンが出動する捜査の物語、というように二つの物語で構成されている。第二の物語がはじまるところで、第一の物語は終るのだ。第二の物語ではほとんど事件らしい事件は起らないし、ホームズが危害を加えられることもめったにない(ファイロ・ヴァンスやエルキュール・ポワロになると、探偵が安全圏内に隔離されるというルールが、ホームズ物語以上に厳格に守られている)。それは、探偵が犯跡と証拠物件を収集し、犯人を確定して行く学習と推論の過程である。この第二の物語は、語り手であるワトソンが親友の解決した事件を一冊の書物にまとめる使命感にかりたてられているかぎりで、第一の物語にたいして特権的な立場を保有することになるだろう。ワトソンが書こうとする本とは無関係に語り進められる依頼人の犯罪物語が文学的に洗練されているとはお世辞にも言えないからだ。第二の物語は謎をはらんだ第一の物語を、理解可能な物語に変換する戦略につらぬかれている。つまり第一の物語が犯罪現場で何が起こったかを伝えるストーリイであるとすれば、第二の物語はこのストーリイをめぐって、語り手のワトソンがホームズの叡智に導かれるままに真実を手に入れるまでの過程を再構成したプロットの形式を備えている(p.182)

 

誰しも感嘆するように、『今昔物語』の簡朴をきわめた文体は、私たちを王朝時代の光と闇の交錯する世界に有無をいわせず引き入れてしまう強烈な喚起力をもっている。書かれている事実に助けられながら、読者は書かれなかった余白の部分に何かを見てしまうのだ。芥川もまた『今昔物語』のこうした喚起力につきうごかされた一人であって、彼が『羅生門』でやったことは、各シークェンスの間にある空白の部分に彼なりのイメージを充填して行く作業にすぎなかったとも言えるだろう。(p.185)

 

さすがに芥川は、下人の回心を直接に説明(diegesis)の形式をかりて語りはじめる性急さからまぬがれている。説明の前後には下人の老婆にたいする態度を描写(description)する部分を布置しておくことで、原話との接続をスムーズにする配慮がなされている。しかも下人の若さや自意識を象徴する「面皰」の効果(Symbol Ⅰでは「面皰を気にしながら」、Symbol Ⅱでは「不意に右の手を面皰から離して」とあるように、その差異が強調されている)が、下人の回心を身体論的に表現することになる。(p.187,188)

 

芥川が『今昔物語』の原話に挿入した〈時間の論理〉からごく自然に連想されるのは、ストーリイとプロットの差異を明快に図式化したE・M・フォースターのたいへんエレガントな定義である。

われわれはストーリイを、時間的順序にしたがって配列された諸事件についての語りであると定義してきた。プロットもまた諸事件の語りであるが、重点は因果関係におかれている。「王が死んだ、それから王妃も死んだ」といえばストーリイだが、「王が死んだ、それから王妃がその悲しみのあまり死んだ」といえばプロットになる。時間的順序は保たれているが、因果律の意識がそこに影を投げかけている。あるいはまた、「王妃が死に、誰にもその理由がわからなかったが、王の死を悲しむあまりであることが明らかになった」とあれば、これは謎を含んだプロットで、高度な発展が可能になる形式だ。それは時間的順序を宙吊りにし、物語としてのさまざまな制約が許しうるかぎりでストーリイから離れている。王妃の死を考えてみよう。ストーリイならば「それからどうした(and then)」と言うが、プロットならば「なぜか(Why)」と問いかける。これが小説の二つの位相の基本的な差異である。(『小説の位相』ペリカン版八七ページ)(p.188,189)

 

ここで下人が直面している選択肢の一つは、盗賊以外の生きるための手段を選ぼうとすれば、そこに予測されるのはほとんど確実な死であり、もう一つは生を完うするためには盗賊になる以外の途は許されていないという強制である。しかし、このジレンマは、じつは見せかけのジレンマでしかない。第一の選択肢と第二の選択肢は、自分の尻尾をのむウロボロスの蛇さながらに、同語反復(トートロジー)の関係にあるからだ。下人は盗賊になるか、ならないかを決定する自由意志を保留してはいる。にもかかわらず、彼は物語の論理に強制されて、結局は盗賊となる途を選択せざるをえない。この見せかけの二者択一は、読者の期待と解決への欲求を刺激し、引きのばされた解答に導くための構造化された謎なのである。(中略)芥川は「盗賊が盗みをはたらく物語」としての原話を『羅生門』では「下人が盗賊になる物語」に変型したのである。この変型はまさにストーリイからプロットへの跳躍であって、読者は下人が盗賊になるか、ならないか、つまりは、生か死か、という二者択一の謎と、老婆の述懐を媒介として得られたその解答とを、一対の項として『羅生門』のテクストから手渡される。いいかえれば、「下人が……」という宙吊りにされた主語にかきたてられた読者の期待と解決への欲求は、物語の最後の局面にあらわれる事態、「盗賊になる」という述語に要約される陳述によって充足されるのだ。(p.193,194)

 

物語のなかに見られる命題より上位の単位は、すくなくとも三つの命題の集合からなる要素連続(シークエンス)である。……すなわち、あらゆる最小の物語のなかに、すくなくとも一つの動作主体の同属ではあるが異なった〈二つの属性〉、および一つの属性から他の属性への移行を可能にする〈変換あるいは媒介の過程〉を同定することができる。(『言語理論小事典』「テクスト」の項目 一九七二)

トドロフによれば、この三つの命題の連続は、⑴均衡状態、⑵不均衡状態、⑶均衡状態、ないしは、⑴属性付与(形容詞的)、⑵行為の記述(動詞的)、⑶属性付与(形容詞的)、という順序にしたがって継起するのだともいう。(p.195,196)

棒馬考

猫はまるでそれが鼠であるかのようにボールを追いかける。赤ちゃんは自分の親指をまるで乳房みたいに吸う。ある意味でボールは猫にとって鼠を「表わす(レプリゼント)」し、親指は赤ちゃんにとって乳房を「表わす」のである。しかし、ここでもまた「表現」は機能の最小限の要件をこえてまで形の類似性に頼っているわけではない。ボールを追いかけることができるということを除けば鼠とは何の共通性もない。親指は吸える点以外に乳房と共通するところは何もない。それらは「代替物」として生物の何らかの要求を満たしているわけである。それらは生物的もしくは心理的な錠前にたまたまぴったりと合う鍵であり、また、それらは硬貨投入口に入れると機械が動き出すあのコインを模造しているともいえる。(p.14,15)代理表象としての芸術作品

 

少なくとも何らかの呪術的な仕方で食用になるものを「表現」している像が手近にあって、それを「槍で突ける」ように、色のついた土で例の「それらしく読める」輪郭線の内部を塗り埋めようとする気持をそそられたということがあったのではなかろうか。(p.21)洞窟壁画について

 

われわれオーケストラの連中は誰よりも指揮者と密接な関係にあり、彼が心で音楽を作ろうとしているのか、頭で作ろうとしているのか判断するのに絶好の位置にある。トスカー二の場合この両者は完全に釣り合っていることをほんとうによく分かってほしい。彼の場合、精神が心情を律しているとはいえ、彼のリハーサルの最初の五分間でオーケストラの団員の誰もが気づかされるように、彼の音楽作りはすべての心の奥底から湧き出してくる。彼は完全に音楽に引き込まれてしまい、彼の表情の一つ一つが彼の感情の深さと強さを表す。そして音楽が彼からあふれ出してくる。彼が自分の力量を自在に操っているということは彼が自分自身に不誠実だという意味ではなく、活用できるありとあらゆる力は掌握されねばならぬということである。クライマックスを盛り上げつつあるときの彼を見なさい。彼はオーケストラの息と活力がほとんど使い果されるまで、もっと、もっと、と要求する。さらに彼は内に蓄えていたものをいやが上にも押し出し、ついにはすべての決定的な極点に達するのである。けっして彼はその力がむだに拡散することを許さないし、また一節たりとも塗り過ぎることはない。彼の無上の栄誉は、そのために一挙に新しい新鮮な光のもとに立ち現れてくるほどの神々しい単純性を備えた、しかもなお、信じられないことには作曲者が残していった通りの作品を演じてみせてくれることである。

こうした気持のよい巧まざる言葉でここに描写された現象はおそらく精神分析学者が「自我統御(エゴ・コントロール)」と呼ぶものであろう。それはとくに魅惑にひかれると同時に理性的制御の可能性をもった音楽演奏家の芸術のうちにみごとに例示される特質である。例えば、トスカーニは「一節たりとも塗り過ぎることはない」と語られるとき、われわれが理解するのは彼は小物の演奏家が陥るような瞬間の誘惑にはけっして負けないこと、そしてその場だけの満足を与えるかもしれないが、全体の構築を壊してしまうような「安っぽい効果」を彼は拒否するということ、さらにまた、強い感情を擁しながらの厳しい禁欲から克ち得たものこそ至上の価値の音楽的隠喩となるあの「神々しい単純性」であるということなどである。(p.56,57)

 

この二番目の写真は、同じ作品を、かなり遠くから同様のガラスを通して見たものです。こうなると、形容詞「おもしろい」にふさわしいと私は思います。私たちは歪曲されてしまったものを再統合しようと努力することによって、ある力を図像に投射するのです。この力はその図像を全く歯切れのよいものにするのです。私はこの発見の特許を取りたいものです。そこには大きな実用の可能性があるのですから。皆さんが屋根裏部屋に、「峡谷の王者」とか「純潔の危機」といった絵画を発見されたとき、今後はそれらを投げ棄てたり、雑役婦に買ってもらう必要はありません。皆さんはその絵を型板ガラスの後ろに置いて、品よくすることができるのですから。(p.98,99)

「時代の精神」という幻想は存続している。私たちは今や、この統合の幻想がいかに生じたのか、また歴史家の仕事のなかでその機能がどんなものとなるのかについてもう少し明確に理解できるかもしれない。古代の祭儀偶像、ブローチの模様、壊された円柱や彩陶の破片が解釈されるときはいつでも、有能な歴史家は創造的想像力の暗示に従ってその意味をとろうとする。しかし、批評的精神はこのヴィジョンに甘んじて留まってはいないだろう。彼は失われた文化のイメージに適合する証拠をさらに待ち構えるだろう。歴史家の仕事は一切をまとめて「意味をなす」文脈の中へ適合させることである。こうして、彼の想像力は余りに熱心に没頭することになり、そのブローチを作ったかもしれない人びと、また、資料が伝えるようなその行為を行った人びとで彼は過去を満たし始めるのである。この想像的歴史家の「死者をよみ返らせ」、歴史的記念物の沈黙の言語を解明する努力は大いに賞賛されるべきものである。しかし彼は、自分の方法が循環論であることに目をつむるようなことは決してしてはならない。歴史家が様々な徴候から読み取った過去の時代の相貌的統合は、まさに彼のゲームの規則が彼を拘束した統合である。諸々の手掛りを意味をなすように統合したのは彼、歴史家だったのだ。(p.127)

 

それゆえ本物の芸術家としては、わが通信者は、少なくとも自分がその可能性をすべて尽くしてしまうまでは、こうした「形式を破る」誘惑に屈することはないだろう。彼の想像力を挑発するのは、むしろゲームそのもの、読む者が調べるように促される、合計六ペンスになる組み合わせの豊かさなのである。ゲームに本当に打ち込む人なら、メッセージは自分の気分に合わせるよりは、たぶん気分のほうを興味深い組み合わせに合わせるようにするだろう。そうする人だけが、思うに、真の芸術的気質をもっているのかもしれない─しかしそれはまた別の話である。(p.163)六ペンス切手を貼る種類組み合わせその色価(バルール)によって伝達する形式

 

実際私はこれらの相貌的反応こそ風刺漫画家の最高の兵器庫であり、最も強力な、そしておそらく最も危険なものと思っております。これらの感覚的特質と道徳的特質もしくは感情の調子との等価性は私たちにとってあまりにも自然で、それらの隠喩的ないし象徴的性格に気づくことはめったにないからです。民族的プロパガンダはつねにこの無意識の融合を利用してきました(p299,300)風刺漫画の功罪

チャパーエフと空虚


マリアはなぜ詩的な概念がこれほどすぐに実際的な行動につながるのか、いささか唖然とした。しかしすぐに、これこそが本物の男なのだと思い直した。(p.76,77)

 

しかしシュワルツェネッガーはすでにコックピットのなかだった。驚くほど滑らかな早業だった。きっと、カットを割って編集したのだろう。(p.79)

 

「詩はどうも不得手なんです。星空がそこにあるのにわざわざ詩など…」

「なんと!」カワバタは叫んだ。「すばらしい!すばらしい歌だ!なんとおっしゃるとおりか!たった三十一音節だが、一冊の書物ほどの価値がある!」(p.237)

 

カワバタの顔色が変わった。彼はもう一度頭を下げて脇に退くと、ジャンパーの腹の部分のボタンをあけはじめた。

「どうされました?」

「お恥ずかしいかぎりです。このような恥を忍んで生きていくことなどできません」

彼は座って包みをあけると、短刀を抜いた。抜き出しの刃が頭上のネオンを反射して藤色の光を放つ。そこでセルジュークは何が起きているのかようやく理解し、かろうじてカワバタの腕を押さえた。(p.238)

 

「いやいやいや…。日本は世界最高水準のテレビを生産してはいますが、だからといって、テレビが心のダストシュートにあいた透明の小窓にすぎないという認識を持っていけないということはない。一生、汚水の奔流に見惚れて、おなじみの缶詰を目にしたときぐらいしか生の実感が湧かないようなかわいそうな人たちの話をしているんじゃありません。わたしたちがわざわざ言及するに値する人たちの話ですよ」

セルジュークは肩をすくめた。

「思いつきません」

カワバタは目を細めて微笑すると、セルジュークににじり寄った。その瞬間、彼の表情はまさしく狡猾な日本人そのものだった。

「馬を放してからテンジン川を渡り、ラショウ門へと歩いていたとき、隣に寝む体の温もりについて話されましたね。あの瞬間、あなたの心が見ていたものこそが答なのではありませんか」

セルジュークは身震いした。ゲイだ。なぜいままで気がつかなかったのであろう。(p.240)

 

「難しいことはありません。書類に顧客に……。表面上ほかの会社と変わるところはないのです。ただ、物事への内面における接し方は宇宙的な調和に合致する形でやっていただきたい」

「給料のほうは?」

「米二百五十石」と彼は言って、一瞬頭で計算するように目を細めた。「ドルに換算すると、年四万ですか」

「ぜひ、ドルで」(p.246)

 

……世界とはその泡の写真みたいなものです、しかも箪笥の裏で、鼠にかじられた」

カワバタはふたたびほほえんだ。

「あなたは本物の詩人だ。疑問の余地もない」

「しかもその写真が」セルジュークは調子に乗ってつづけた。「現像される前に全部食べられてしまうことだってあり得るでしょうね」

「すばらしい。おみごと。ですがまあ、これは言葉における詩情です。詩情にはまた、行為の詩情もある。きっと最後の無言の詩も、今日一日わたしを喜ばせてくれたあなたの詩にふさわしいものになるのでしょう」(p.252)

 

「自分で言ったじゃないか、夢のなかじゃすべてが猛スピードで展開すると。くりかえし立ち戻れる一定の活動があれば、固定的な核ができるだろう。そうすれば夢はより現実的なものになる。夢で記録作業をするとは、それほど結構なこともないんじゃないか」

僕は考えこんだ。

「だけど何のために“固定的な核”なんて必要なんです?こっちはそこから解放されたくてしょうがないってのに」

「だからこそ必要なんだ。現実的な対象がなければそこから逃げる方法もない」

「なるほど。じゃあ仮に書くとして、その場合、僕はここで起きていることについて、とにかく何でも書けばいいわけですか」

「そうだ」(p.275)

 

「輝かしい成功」と僕はもう一度言った。「それは、自由な思考の特別な飛翔が、人生の美を目にする機会を生む瞬間のことです。……わかるでしょうか、こんな説明で」(p.293)

 

チャパーエフとアンナはどこにいる?タイル壁や粉々のアリストテレスの持つはかない夜の世界は?どちらの世界もいまはどこにもなかった。それどころか僕ははっきりと感じていた─それらが存在し得る場所はどこにもないと。なぜなら僕が、この不可解な人物(本当に人間かはおくとして)の横に立つこの僕こそが、精神病院やら内戦やらが存在するための唯一絶対の条件だからだ。(p.294)

 

だがじつは同時に彼らはみな、自分だけの豪勢な玉座を持ってもいる。それはこの世に君臨し、この世以外のあらゆる世界にも君臨する玉座だ。つまり文字どおり王の椅子で、そこに座る者の支配を受けない者はどこにもいない。しかもここで重要なのは、その玉座は絶対的に正統なものだということだ。それぞれにみな、まともな権利があってそれを所有している。にもかかわらず、だれもそこに座ることはできない。なぜならそれはどこにもないからだ。わかるかね、それがあるのはどこでもない場所なんだ」(p.298)

 

ここでは君の頭から離れない世界は両方─チャパーエフのほうも、もうひとつのほうも─同じように幻だ。どこでもないところに行ってこの永遠の自由と幸福の玉座に座るには、まだ残っている唯一の空間、つまりいま君がわたしと君自身とを目にしているこの世界を消すだけでいい。わたしが督てやっている連中もそれをしようとしている。だが彼らにはチャンスはほとんどない。彼らはすぐにまた、陰鬱な存在の輪にもどらなくてはならない。だから、行けるのなら生きているうちに“どこでもない場所”に行かない手はない。人生最良の体験になることは保証しよう。君はメタファーが好きだろう、その手の表現を借りると、これは、思いきって精神病院から退院するということだ」(p.298)

 

ヴィジュアライゼーションという言葉を聞いたことはないかね。宗教の信者が大勢で神か何かに祈りをささげると、その祈りの対象が現実に姿を現すことがある、しかも人々が想像したとおりの姿で」

「聞いたことがあります」

「われわれにも同じことが言える。われわれが住む世界もたんに、人々が生まれたときからそう見るように教えこまれてきたものの共同的ヴィジュアライゼーションにすぎない。実際これは、ひとつの世代から次の世代へと引き継がれる唯一のものだ。このステップや草花、あるいは夏の夕暮れも、かなりの人数で眺めれば、みな、ともに同じものを見ることができる。だが、さきにそれがどんなものであるかが示唆されていなければ、われわれは思い思いにみずからの心の反映を見ることになる。だからさっき君には漆黒の闇しか見えなかったというのなら、それは君の内面世界が夜のように暗いということだ。君は不可知論者だからまだよかった。でなければ闇のなか、至るところに神やら悪魔やらが跋扈していたかもしれない」(p.313)

 

夢は妙な地下鉄の、駅名アナウンスからはじまった。その駅名も覚えているし、その名がどこから生まれたのかもわかっている。あれはまちがいなく意識が、夢の世界の複雑なルールに従って、目が覚める瞬間に窓の外で兵士が叫んだ馬の名前から生みだしたものだ。しかもこの叫び声は二枚の鏡に映った。駅だけでなく、同時にサッカー・チームの名前にも姿を変え、夢が終わるときの会話の一部となった。これはつまり、きわめて詳細かつ長いものに思えた夢も、実際には一秒もかかってはいなかったことを意味している。(p.317)

 

僕にはこれが何を意味するのか、さっぱり理解できない。もっとも僕はこれまで自分の詩が理解できたことなどなければ、そもそも作家の独創性というものにもずっと疑問を抱いてきた。ペンを手にかがみこむ者にもとめられるのは、ただ心に散った無数の鍵穴を一列に並べることだけだ。その穴を通して紙に日の光が射すように。(p.368)

 

「ひとつわかりました。自由というのは理性がつくりだすすべてのものから自由なときにだけあり得るんですね。その自由こそが『知らない』と呼ばれるものだ。あなたは完全に正しかった。『言葉にされた思いは嘘だ』という表現がありますよね。ですがチャパーエフ、僕は言葉にされない思いも嘘だと言いましょう。なぜなら、思いというもの自体、すでに言葉にできるものなんだから」(p.402)

 

「いまのは粘土機関銃だったんだ」とチャパーエフが言った。「もう説明してもいいだろう。実際にはこれは機関銃でも何でもない。何千年も前、この世界にブッダ・ディーパンカラやブッダ・シャカムニが現れるよりもはるか以前、アナガマというブッダがいたんだが、彼は何かを説明するのに時間を無駄にすることはなく、つねにただ左手の小指でものを指し示すだけだった。するとすぐにそのもののほんとうの性質が現われた。彼が山を指すと山はなくなり、川を指すとこれもまた消えた。話せば長いが、つまるところ彼はその小指でみずからを指し、彼自身消えてしまった。そこにはその左手の小指だけが残り、弟子たちはそれを粘土のなかに隠した。粘土機関銃とは、まさしくこのブッダの小指が入った粘土の塊のことなんだ。はるか昔インドに、この粘土の塊を地球上で最も恐ろしい武器に仕立て上げようと企んだ男がいた。だがそいつは粘土に穴をあけるなり、この小指に指されて消えてしまった。以来、小指は鍵付きの櫃に保存されて、方々を転々とし、ついにはモンゴルのある修道院へと消えた。それでいまは、いろんな事情があってわしのところにある。わしはこれに銃床を作りつけ、粘土機関銃と呼ぶことにした。それをついいましがた使ったわけだ」(p.407)

 

そうだ。そもそもこれは僕にとってつねに唯一の取り柄だったことではないだろうか─この作り物の世界を照らす鏡の玉を万年筆で撃ち落とすというのは。(p.444)