2024年2月12日

雪国に閉じ込められ、身を費やし、いくばくかの賃金を得ている。

会社勤めをしてみて何ヶ月が経っただろう。「やってられない」この感想に尽きる。

アルバイトであれば、その時間内、時給の発生する時間内、資本に身を捧げれば済む話であるが、サラリーマンはその肩書きに縛られ、責任を負わされ、休暇も、出勤日のための「一時停止」である。休日が「休養」だとは何と哀れなことか。社畜という言葉を我ごとに、実感を持って認識できるようになったこと、これは未来から振り返った時に成果なのか汚点なのか。

休日は何もない、何もすることがない、虚無を持て余した人間が始める何か、それがその人間の本性の発露になるわけで、私はこの何ヶ月間か、たまの休日に些少な我に返りながらも、明日の労働という深い微睡みに追われ、なけなしの私を投擲する毎日である。

確かにこれは私が望んだこと、選んだことだ。思想的選択によって、私は私を放棄してみようと昨年決めていたのだ。

しかしこうも身を窶し、やってられない、興味の持てない労働に明け暮れていると、こう沸々と溜まってくるものを感じる。会社という組織は私にとって女王様にはなり得ない、低級な指示しか与えてこない存在だ。

美術や映画、音楽や小説...、美術活動で摩耗した私の感性は、この絶え間ない灰褐色の歯車生活のお陰で、色を取り戻しつつある。