西村梨緒葉 個展「ハッピーエンド」についての覚書

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西村梨緒葉 個展「ハッピーエンド」@ニュースペース パ 2022/1/8~16

 

展示という、鑑賞者はいつ行ってもすぐ見れる、いつでも帰れる、その代わり展示物は常にそこにある(いる)ことを強いられる、サドマゾ(放置プレイ)契約。鑑賞者の傲慢さと、待ち続ける展示物との、非対称で淫靡な関係。

 

「ハッピーエンド」では、世に溢れる展示同様、展示室に置かれた様々な物体は、鑑賞者を待ち続けている。最初に奥の部屋に入った時、紙に印字されていた「退屈だ」「いつまでこの状態」というような言葉は、まさに(演劇的な)展示物の言葉として受け取れる。筐体の口から出る、長い(髪というより)舌に乗った言葉の一部を切り取って(見て)、持ち帰る(盗む)、身を売る者と買う者の関係。私だけに語りかけていると思いきや台本がしっかりとある、性愛サービス。

 

展示物が待ち続ける時間に比べたら、鑑賞者が待つ時間なんて、ほんの十数分、鑑賞者がいつ来るのかわからない展示物に対し、鑑賞者は展示物がいつでも見られる状態であることを疑わない。その上、鑑賞者は数分でも待つことを嫌う。サービスを受ける側にあぐらかいて譲らない。なんて傲慢な生き物。でも展示物だってそれを良しとしてる、鑑賞者という女王様に数分でも構ってもらえるだけで、その後何時間でも待ち続ける活力が湧く。見られるということには、見られる側のエロティックな欲望が込められている。所有される欲望。

 

以前から上演系作品の時間設定が嫌い。何故か、それは時間を合わせる面倒くささと、待ち時間を設定する恣意性を、あたかも作品と無関係かのように振る舞う作家に対する嫌悪による。
「ハッピーエンド」では、鑑賞者に対する当て擦りのような、待合室の存在と、時計と、待ち時間の明記、そして(「待ち時間に見てね」と言わんばかりの)絵画、鑑賞者、それらが長時間の待ち時間の末に前景化して、奥の部屋がむしろおまけのよう。ソファが満席の状態の時に、帰っていった一人のおじさんは、とても目を惹く(パフォーマティヴな)行動で、待ち時間を利用して絵画作品のタイトルの翻訳をスマホで調べたりキョロキョロしていた私も、作品の内に組み込まれた気分。展示室から外に出ても、まだ待たされている感覚だし、でも時間をおいて反対側の歩道に行き眺めてみたら、待ち人たちがいる展示室の光景は、絵のようで、そこで初めてこの展示を外から鑑賞できた気がする。

 

奥の部屋の筐体、吐き出される紙、鑑賞者が何の言葉を発さずとも、相手してくれる。それは医師と患者とのやり取りというよりも、性風俗でのサービス(ピンサロで挨拶を交わしたら有無を言わさず跨ってくる)に近い。雰囲気を壊さないように相手が何を求めているかは聞かない、というより鑑賞者の症状を展示物はあらかじめ知っている。鑑賞者は窃視症とサディズムを患い、サービス(キュア)として、展示物は露出狂とマゾヒズムを提供する。
待合室はカウンター内のキーボードを叩く音と、奥の部屋で聞こえる音、それらは病院とか会社のようだったけど、今その音を思い出せず構造のみを思い返すと、性風俗店の待合室をどうしても思い浮かべてしまう。

 

そういえば絵画の展示で、ずーっと見ている人は、一体何を見ているのか。そんな長時間を耐えうる絵画があるなんて、正直思えない。凝視したポイントからボロボロと崩れそう。絵画を見る人はどこか芝居くさい。
私が今まで最も「鑑賞した」といえる絵はおそらく、小学生の頃から通っている美容院にあるラッセンの絵だろう。美術館で絵を見ている人のように芝居がかった姿勢で長時間眺めたことは一度もない。予約したのに待たされた時、シャンプーを終えて手持ち無沙汰の時、毎回のそんな隙間時間にチラッと目に映るそれが、積み重なって「鑑賞した」絵として存在している。